プロフィール
●略歴です
■1961年(昭和36年)5月4日香川県高松市で生まれる
■国立高松高専(現・香川高専)電気工学科を卒業
■大阪府立大学 工学部電子工学科を中退
■昭和61年、ふるさと高松で就職
■平成 5年、転職し摂津に住む
■平成16年、地域の活動を始める
■平成25年、摂津市議会議員に初当選
・少年補導員
・第3中学校区 地域教育協議会(すこやかネット)会長
・摂津市人権協会 常任委員 (第3中学校区 委員長)
・摂津高校学校協議会 委員
・柳田地区福祉委員会 会計・地域育成部会 副部会長
・三宅柳田小学校 α共室 代表
・柳田地区市民体育祭 事務局長
・三宅柳田小学校 施設開放委員会 副委員長
【歴任職】
旧柳田小学校PTA会長、第三中学校PTA会長
摂津市PTA協議会副会長・顧問
平成16年、摂津市立小中学校の「緊急連絡メール」
(PTAメール)のシステムを立ち上げました。
平成26年より、摂津市で運用のシステムに移管
●その他
◇家族/ 妻、一男二女
◆趣味/ 旅行、映画鑑賞(特に寅さん)
◇好きな言葉/ 「君が愁いに 我は泣き 我が喜びに 君は舞う」
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●詳しい経歴です
□1961年(昭和36年)5月4日香川県高松市で生まれました。
お医者さんから、「この子は、生まれても元気に育つかどうか分からない。」と言われた父が、健康に育つようにと、「つよし(毅)」と名付けたそうです。おかげで今は元気です。
□私が6歳の時、父が脳溢血倒れて急逝しました。
会社の経営者だった父のもと、それなりに恵まれていました。しかし、それからまもなく母が無理をして過労が重なり結核で入院しました。私は親戚のもとしばらくお世話になっていました。
母ひとりで苦労して育ててもらって、本当に感謝で一杯です。
長らくふるさとで一人頑張っていた母でしたが、家族の協力もあり数年摂津で共に過ごして平成20年に永眠しました。もっと親孝行しておけばよかったとの思いが尽きませんが、母と同じ世代のお母さんを見かけると、いつまでもお元気でとの思いが募ります。
□高松市立四番丁小学校を卒業しました。
高松市役所に隣接した、菊池寛や向田邦子さん等の著名人も通った学校でしたが、少子化の影響で統廃合の為、残念ながら廃校になりました。母校がなくなるのは本当にさみしいものです。
小学校時代は放送委員会に所属し、お昼は「乾布まさつ」、夕方は「下校の音楽」を流していました。
□高松市立玉藻中学校を卒業しました。
小学校の後半は「絶対に転校はしたくない。」と母にわがままを言って、校区外からバスで通学していました。今から考えると先生方にもさぞかしご迷惑をおかけしたものだと思います。
中学校は、居住地の校区の学校に入学し、最初は友達も少なく不安で一杯でしたが、友達にもめぐまれすぐ馴染むことができました。
体を鍛えようと、柔道部に所属し(一級・茶帯)、また、放送部も掛け持ちでがんばっていました。
校内にリクエストボックスを設置して、お昼休みにはディスクジョッキーを行い、音楽を流していました。レコードが手に入らないときはギターを弾いて自ら歌っていました。
当時、流行っていたのは「カントリー・ロード」の曲や、「ベイシティー・ローラーズ」が人気がありました。
団地の階下の方に通って教えてもらい、中2のときにアマチュア無線(現在2級)の免許を取得しました。母にまたも無理を言って、高額な無線機を買ってもらい、日本全国の方そして世界の方とは英語が話せないのでモールス信号で交信していました。
□国立高松高専(現・香川高専)電気工学科を卒業しました。
アマチュア無線の影響もあって、電気系の道に進みました。
男ばかり5年間顔ぶれが一緒のクラスの為、みんな仲良しで兄弟みたいなクラスメイトでした。
吹奏楽部(トランペット)と無線部に所属していました。
□大阪府立大学 工学部電子工学科に編入学しました。
高専に入学当初、母ひとりなので大学は諦めていましたが、編入学の制度があることを知り進学しました。
しかし現実は厳しく、経済的な理由もあって中途退学し、ふるさと高松に帰郷しました。
その時の色んな経験と挫折感が、後の自分自身の人間的な部分では、とても意味のあるものになったと思っています。
□昭和61年、ふるさと高松で就職しました。
自力で就職活動を行い、4月から務める予定であったコンピュータ関係の会社が入社直前の3月に倒産しました。実は、前年すでに内定をいただいていたのですが、就職できず1年見送りになっていました。もし、入社していたら途中で露頭に迷うところで守られたのかも知れません。
慌てて再度就職活動を始め、OA機器の営業からスタートしました。
ところが、しばらくして社内でクーデターが起こり、当時常務だった上司が独立することになり、私はその方のお世話で入社していましたので一緒に移籍することになりました。
当時はまだコンピューターの普及率は低く、いきなりコンピューターを売りに行くよりも、文具・事務用品を扱いながらコンピューターを拡販していこうとの方針になり。半年間、文具の卸問屋に修行に行きました。
その後、B5サイズの大きな名札を作って文具・事務用品の飛び込み営業を行いました。
この経験でかなり度胸が付いたと思います。
夜はソフトのプログラム制作も担当し、毎日深夜まで仕事をしていました。
□昭和62年、結婚しました。
結婚を機に転職をし、クリーニング業界向けの省力化機器のメーカーに就職しました。
当時はNECの9801を使って、機械と人間の橋渡しとなる入力部分のソフトを担当し、そのころから出張で全国を走り回り始めました。
□平成5年、転職し摂津に引越しして参りました。
当時の得意先がクリーニング店向けのPOSレジを作りたいということになり、一大決心をして家族4人(当時)で再び大阪で再就職。
会社があった目の前のマンションに住み、摂津デビューしました。
□平成16年、地域の活動を始めました。
平成16年、息子(第3子)が小学3年生の時、旧・柳田小学校のPTA会長のお話をいただきました。
3人の子供たちがお世話になっていましたので、せめてもの恩返しにと思いお受けしてがんばりました。
今では、地域のさまざまな団体でお世話になり、その活動は早いもので10年目になりました。活動に携わらせていただいて感じたことは、家庭・学校・地域の連携がとても大切で、いろんな形で長年地域を支えてくださる方がたくさんおられることがよくわかりました。
□平成25年、娘に孫が生まれました。
まだまだ、若いと思っていた私でしたが恵まれて、「ジィジ」デビューとなりました。
□地方自治でのお話をいただきました。
家族にも負担を掛け、現在の仕事も中途にできないとの思いもあり悩みましたが、こんな自分でも人生を掛けて人のためにご貢献できるのであればと思い、家族の後押しもあって、お受けすることにしました。
早いもので、摂津での生活は28年目を越えました。
おかげで前職では、北海道から台湾まで全都道府県を訪問でき、色んな思い出ができました。
現在は、がんばりやの妻。嫁いでからも看護師として医療現場で奔走する長女、今は母となり保育士として育児にも奮闘中の二女。さらに、中高6年間吹奏楽部でがんばり、中3・高校3年間をマーチング大会で全国にも出場し、平成30年春に社会福祉職で就職した長男がいます。
子どもたちは独立しましたが、令和元年より妻の母を故郷から大阪に迎えました。
どこまでも、感謝の気持ちを忘れることなく日々自らも成長して参りたいと決意しています。(2023.12更新)